「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
30年の歳月・・・・・・阪神淡路大震災に思う



倒壊した阪神高速3号神戸線の高架

https://www.kobe-np.co.jp/より

 早いもので、あの震災から30年である。神戸市内を中心に数多くのイベントが開催されたようだ。30年って、壺井栄の「二十四の瞳」の十年一昔を真似て言えば三昔だ。

 やはり大きな節目ってことだろうか、様々な追悼イベントが行われたのは良く分かる。それにこのところ、南海トラフ大地震が切迫してるなんて報道が日々続いて、一般市民の震災への関心が高まってるのは間違いないし、ましてやあの震災で親族を亡くされた方にとっては30年でも足りないだろう、ってことも十分理解できる。

 ・・・・・・でも、だ。いい加減そろそろ阪神淡路については切り上げても良いのではなかろうか?って気がしてる。今日はそんな話だ。

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 まず初めに、あの日の極私的な記憶をいくつか書いておこう。

 最初、地震が発生したとき、おれはちょうどそろそろ起きようかな~?って思ってた時だったんで、半分目が覚めてた。僅かな揺れはまたたく間に大きくなり、とにかく猛烈に揺れて揺れて布団から立ち上がることができなかった。後ろ手に半身起こしたままワーワー叫んでたような気がする。隣で寝てたヨメは当時、二人目の子を妊娠中で、こんなおれでもそっちを守らにゃアカンやろ!?って気持ちはあるものの、とにかく動けない。
 枕元のローチェストに積み上げてあったカセットテープやら何やら小者類がバラバラ崩れ落ちてくる。1分くらい揺れは続いたかな?横揺れが多かったように思う。まだ1歳数ヶ月だった上の子が目を覚まして「マンマ~」っちゅうたのだけはハッキリ覚えてる。やはり彼は大物かも知れないな(笑)。
 揺れは収まったものの停電で真っ暗で、TVも点かず、電池式のラジオもなく、懐中電灯は普段の横着が災いしてすぐにバッテリー切れになった。大地震が起きたってコト以外、何が起きたのかサッパリ分からない。幸い、家具の長辺の向きが揺れの方向と平行だったオカゲなのか、家具類は一つも倒れなかった。後から聞いた話では、同じマンションでも向きが直角になってた家はバタバタ倒れまくって大変だったみたいだ。
 暗い中、なんとか押入れを探して見つけた蝋燭で最低限の灯りを確保して、まずは双方の実家に電話。拍子抜けするほど普通に繋がった。どちらも普段よりかなり揺れはしたものの特に何もない・・・・・・っちゅうことは、おれたちの方が震源に近いんだ、ってコトが判明。
 何せ、インターネット時代前夜であり、ケータイがWebに繋がってるワケもなく、図体ばかりデカいデスクトップPCは停電で起動できず、よしんば起動したところでアナログの電話回線ではネットに接続できなかったろう。どこでどれくらいのことがどんな風に起きたのか何も分からない。これはものすごく不安だ。本震ほどではないにせよ小さな余震は頻繁に起きてたような気がする。こりゃもぉジタバタしても始まらんだろう。ハラ括ってひたすらじっと明るくなるのを待つ。白み始めた外を見ると、街に大きな被害はなさそうだ。火の手なんかも上がってない。

 7時半前後だったか、パッと電気が復旧し、最初に見たのは阪急伊丹駅の状況だった。高架がツブれとるやんけ。だからおらぁてっきり伊丹市周辺で内陸性で局地的な直下型地震が起きたのだと思った。余震は大きいのがその少し前にあったくらいでだいぶ落ち着いてきたみたいなので、取り敢えず会社の方の様子を見に行くことにする。クルマは万一を考えてそのままにした。会社まではそれほど遠くなく、徒歩なら僅かに残った田圃や畑の中の細い抜け道を通って行くだけなんで、猛烈な余震が来たとしても死ぬことはなかろう。
 少なくともまだその時点では、おれはまだ震源地もマグニチュードも、神戸市内の惨状も少しも理解できてなかった。それを知ったのは、10時か11時くらいになってからだと思う。つまり地震発生から約5時間、何もまとまった情報は得られなかったのだ。

 当然ながら会社は上へ下への大騒ぎになってた。まず、おれと同じく予定時刻に出勤できてないヤツ大勢で仕事が回らない。でも、建物は古い割に大きな被害もなく、古めかしい巨大金庫が台座からズレてナナメってたり、いくつかのキャビネットがコケて戸のガラスが割れたり中のものが散乱してたりする程度だ。
 バカなナンバー2のオヤジが従業員名簿出せだの安否確認しろだの、いつものパターンでムダにウロウロしながらこれみよがしに騒いでる。コイツ、昔それでホメられでもしたのか、何か天災があるとすぐにこうして「おれは配慮してんだよ」って体で名簿出せ!連絡取れ!って騒ぐのだ。だからおれたちは陰でこのバカのことを「ご配慮」と呼んでた。そもそも電話が繋がらんのにどないして本人に連絡取れるっちゅうねん?ヴォケ!
 みんなの見えるところに引っ張り出したTVは刻々と神戸市を中心とする惨状を映し出している。コケた阪神高速の高架、すんでのところで辛くも停まったバス、市内の随所から上がる火事の黒煙、傾いたりペチャンコになって道路を塞ぐ建物や民家、身動き取れなくなった鉄道、公園や広場に着の身着のままで集まり始めた群衆・・・・・・信じられない光景だ。

 ・・・・・・その日から3日はほぼ完徹、その後も通常業務に加えてあれこれと雑事が山のように降ってきて殆ど寝れなかった。帰宅して布団に入れても2時とか3時、起きる時間は変わらず6時前だからそらしんどいわな。まぁ、震災で家に住めなくなったり、ましてや死んだりするのに比べればなんでもないことなんだろうが、マジでキツかった。一息つくまで半月くらい続いたろうか。残業代!?・・・・・・事務方にはマトモに出ません、って(笑)。でもこないなったら、最早「祭り」ですやん。損得だのグズグズゆうてる場合ちゃうでしょ?意気に感じて誰かやらんとしゃぁないっしょ?ヤボは嫌われるだけですやん。
 想い出す。そうして夜中まで頑張ってると、総務が気を利かせてとてもペーペーの分際では身銭では食えないような特上寿司の桶盛を毎晩ドーンと出前で取ってくれるのはありがたかったな(笑)。とはいえ一週間くらいすると、寿司のカンフルにも拘らずダウンして高熱出して呻いてるのが増えて来て、医務室の床にまで布団敷かれてたけどね。野戦病院だったな、まるで。
 従業員の中には、両側のタンスが倒れて逆V字型になってくれたおかげで家の倒壊から助かったヤツ、住んでたアパートの側面がゴッソリ落ちてまるで吉本の舞台セットみたいになったヤツ,不幸なところでは揺れに思わずブロック塀に手を付いたものの、その塀が倒れて下敷きになって引っ張り出されたヤツとかもいたが、幸い死んだ者はいなかった。命あっての物種、まだ骨折で済むくらいなら儲けモノだ。

 上記はごく一部のエピソードだけど、それがおれの阪神淡路大震災だ。

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 閑話休題。

 そんな阪神淡路大震災、今回の記念式典は随分と盛大なもので、天皇陛下までやって来たという。震災をキッカケに始まったルミナリエも今や冬の風物詩となった感がある。まぁ、鎮魂の祭りがそのまま継続的に行われるようになった例は他にもたくさんあるからまぁこれは分かる。祇園祭だって元をただせばそんな感じだもん。でもやねぇ・・・・・・

 関東大震災が起きたのは1923年、ではその30年後の1953年、まだ戦争から立ち直ったというにはいささか早い時期ではあったけど、この年にそこまで大規模な追悼式典が行われたって記録は、あちこち探してみたけど見付からない。出てくるのは朝鮮人虐殺の慰霊集会ばっかだ。
 これは震災直後の流言蜚語で「不逞鮮人」なんて言いがかり付けられた挙句、あちこちでリンチの果ての殺人が多発したことを指す。全くもってヒドい話で、要は普段から差別しまくって後ろめたさ感じてた裏返しと言えるだろう。今なら、中国人やらベトナム人、ホンマかどうかわからん「日系」ブラジル人あたりが標的になったりしてね。
 ・・・・・・と、いささか脱線したが、要は関東大震災の追悼集会が東京都を挙げてそんな大規模に開催されてたようには見えないのである。もちろん、おれの探し方が雑なのかもしれないし、その間に太平洋戦争があり、戦死した数多くの兵隊さんだけでなく、東京大空襲では12万人からの一般市民がくちゃくちゃガム噛みながらのアメ公によって無差別に虐殺されたっちゅうのがあったんで、まぁそれより古い関東大震災の方が霞んでしまった、ってのも大きいんだとは思うが。
 そんな状況を勘案しても、関東大震災は少なくとも30年で既にけっこう風化してたのではないか?ってのがおれの見立てだ・・・・・・風化の是非はともかくとして、だよ。

 こう言うと何だが、詰まるところ地震は自然災害なのである。あれからも東日本大震災だけでなく、中越やら福岡、熊本、そして能登と大きな地震は続いてるし、阪神淡路の近くだと高槻でもかなり大きなのがあった。そして大地震は今後も間違いなく起きる。静穏期を迎えるのは恐らく南海トラフの後からだろうが、どうせまた何十年かしたら活動期はやって来る。残念ながらそれが自然の理なのだから、プレートの動きが止まりでもしない限り地震は起き続ける。
 ならばこうしたイベントに公金を注ぎ込むのはそろそろ打ち止めにして、人口減少と相変わらずの不景気で厳しい歳入のこともあるんだし、次への備えにちょっとでも回した方がエエんとちゃいますか?ってのがおれの意見だ。いつまでも過去を振り返る行事に拘泥してたってどうにもならない。俗に言う、「死んだ子の年を数えても仕方ない」ってコトだ。

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 そこまで考えてハタと気付いた。この30年なん年、おれたちはあらゆる面で「停滞」しちゃってんぢゃなかろうか?と。

 物価が停滞してたのは今更言うまでもなかろう。デフレ、デフレって物が安く変えることにウツツを抜かしてるうちに日本は先進国からもズリ落ちそうになってる。いくら戦争が間に挟まってたといえ、昭和元年と30年の物価が変わってないのとタイムスパンとしてみたら一緒なんだよ。昭和30年と60年で較べたって良い。自然なインフレが大前提の資本主義社会でこれはどう考えてもおかしい。
 ファッションや嗜好だってそうだ。1995年と2025年で、どれだけ大きく変わったか?っちゅうたら殆ど変わってない。一部の女子コーセーやらギャルはともかく、例えばミニスカートとかベルボトムみたいに、全国的に大流行したようなのってこの30年無かったし、和服から洋服みたいな大きく流れを変えるスタイルの変化も生まれなかったよね?
 おれはあまりTVは観ないんだけど、こないだヨメと一緒に昔を振り返る歌謡番組見てたら、30年の懸隔がほぼ感じられなくてゾッとした。ステージも歌ってる連中のファッションも髪型も、バックで演奏する連中の楽器や配置、いや歌ってる人自体が今も歳取っただけで相変わらず出てたりするしね(笑)・・・・・・すごく雑な言い方をすると、バブル崩壊あたりを一つの分水嶺に、そっからさほど大きくは変わってないのである。

 そらもちろん、急速に進展したスマホの普及とそれに伴うキャッシュレス化/ペーパレス化に代表される本格的なネット社会の到来とかは特筆すべきことだろう。また、すっかり街からタバコは追いやられてしまったりもした。昔は大都市の駅のホームから線路を見ると吸い殻でびっしり白く埋め尽くされてたのがウソみたいだ。マンションは規制緩和でエノキのようにタワマンが林立したのも間違いない。クルマのコモディティ化、電動化なんてのもある。だけど一方で、相変わらず30年前のクルマやバイクが今もたくさん元気に走ってたりするのは事実だ。第一、さっきの歌謡番組同様、どれもさほど古く見えない。

 いやまぁいささか悔しいけど、おれが歳を取って変化に対する目が曇って鈍くなった、ってのが影響してるのは認めざるを得ない。しかし、その点を差っ引いてもやはり、世の中停滞してはいないだろうか?そして立ち腐れてないだろうか?

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 そろそろおれたちはこの30年の過去と訣別し、前をもっと見んとアカンのちゃうやろか?
 そのためにも、30年の象徴でもある阪神淡路大震災の追悼式典も、思い切ってもう今回を最後にして切り上げるべきではないだろうか?法事だって永くやっても一般的にはせいぜい30回忌が区切りでっせ・・・・・・と、退嬰的なおれが言うのは似合いませんか?さいでっか。

 ・・・・・・あ!30年といやぁ震災のおよそ2ヶ月後、たしか春の彼岸の頃だったか、オウム真理教の大事件があったっけ。


随所で発生した火事で立ち上る炎と煙

https://kobe117shinsai.jp/より

2025.01.25

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