バブルの頃 |

バブル期を象徴するニッサン「シーマ」。今見るとホイールベースが妙に短くてカッコ悪い。
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バブル景気が崩壊してもう20年以上が過ぎた。
何が公式なのか良く分からないが、公式見解では平成3(1991)年2月、遅く見積もっても翌年2月にはそれは崩壊したと言われている。それまで高騰に高騰を続け、4万円の大台に届こうとしてた東京市場の平均株価が少し前から突如暴落を始めたのである。今が大分戻したとはいえ1万5千円前後で揉み合ってるから、まだ絶頂期の半分にも届いてないのだ。
ともあれその後の日本の苦境は言わずもがなで、世間的には「喪われた20年」などと称される。折角ちょっと取り戻しかけたところで、リーマンショックで首吊りの足を引くように根こそぎさらに持ってかれ、ようやくこの数年、少し一息つけたかな?ってーのが偽らざるところだと思う。やれアベノミクスだ、個人消費が上向いて高額商品が売れ始めたなんて世間は騒いでるけど、あの頃に較べりゃまだまだ全然規模が小さいし力強さに欠ける。
ではバブルの始まりが何時のことだったか?っちゅうと、どうやら昭和61(1986)年ごろらしい。プラザ合意で日本の零細な輸出産業が大打撃を受けたことは自転車ネタで随分語ったんだけど、一方で空前の円高となり、行き場を無くした融資金・・・・・・っちゅうよりは銀行のマンパワーが土地に注入された。
持ち家を転売すれば面白いように差益が入り、各地でリゾートなんちゃらってな施設が濫造され、土地を担保に金を借りれば評価額以上の融資が引き出せた。「地上げ」なんてーのが社会問題化したのもこの頃だ。その金が株式投資その他にさらに費やされ、株価はどんどん吊り上ってった。さらに行き場を無くした金は海外のホテルや企業、リゾートへの投機や買収にも使われ、世界中に日本人や日本企業の保有する物件が溢れることにもなった。千昌夫とか今はどうしてんだろ?
かくして錬金術的に生み出されたキャピタルゲインは日本全体で最大1500兆円くらいにまで膨らんだらしい。リアルにイメージできない途轍もない金額ではあるが、要は実体のない金っちゃそれまでであった。
おれはバブルに対して肯定的でもなければ否定的でもない。国民総博奕な祭り状態にダイブして、儲けた人はそれで良いし、損した人は後からグジュグジュ言うな、ってだけである。それにおれは終始バブルの埒外に居たのだった。ハハ、おれは遣うばっかしで、ゼニ儲けに関することにはからきし疎いのである。
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86年の始まりに於いて、誰もバブルなんて言葉を遣ってなかったように思う。景気が急に良くなった感じもなかった。おれはまだ学生だったが、ちょうどバンドが空中分解して目の前の目標が無くなり、何となく音楽そのものまでがイヤになって再び単車にウツツを抜かしてた時期と重なる。それでもまぁ、学生の分際で中古とはいえ、また懇意にしてた単車屋の口利きがあったとはいえ、さらには200枚に及ぶ貴重なレコードコレクションを売ったとはいえ(・・・・・・しつこいな、笑)、紛いなりにも逆輸入車が買えたんだから、やはり日本全体の景気は良くなっており、何となく浮かれた時代のおこぼれくらいには与れてたのかも知れない。大体、浪々の身の学生で単車を三台も保有するトコからしてバブリーだわな。
とは申せ、個人的にはそれ以前の方が遥かに景気が良かったのだった。月収は当時の大卒初任給の倍くらいあったし、社会保険料や税金といっためんどくさいものも引かれない金だったので、ものすごく羽振りが良かったのである。なのに根が小心者ゆえのヘンな倫理観が首をもたげてボロいアルバイトを止めてしまったせいで、このバブルのかかりの頃にはスッカリ随分生活が苦しくなってた記憶がある。
三日にあげず結構な寿司屋で特上握りや気の利いた造りなんぞをつつきながら飲んだくれてた生活からすれば、何人かで割り勘で食材を購入し、下宿の炊事場で1枚20円のコインを投入して使うガスコンロでチマチマと調理するのだから、その零落ぶりは言わずもがなだろう・・・・・・ま、それはそれで楽しかったのだけど。
そう、不思議なことに悪友たちもこのバブルの始まりあたりからみんな不景気になっていた。何でだろ?学年が上がり、入学当初の狂騒の時代がそろそろ終わる時期に差し掛かってたからなのかも知れない。
実家の両親が夢にまで見た(笑)一戸建ての土地を入手したのもこの時期と相前後している。ウソかマコトか、散歩してて分譲募集の幟が出てたので申し込んだら100倍以上の競争率にもかかわらず補欠当選してしまったらしい・・・・・・で、キャンセルが出て繰り上がった、と。
ここで注目すべきなのは競争率だ。いくら高人気な分譲地でもそんな3ケタになんてなることはこれまでなかった。業者を中心に目敏い人が、土地の動きに目を付けて投機目的でとっくに動き始めていたのである。ちなみにバブル崩壊目前、大阪府の分譲地の競争倍率は箕面の小野原かどっかで実に1400倍に達したと言われる。公団分譲といえども坪単価は上がり詰めており、最早抽選会に並ぶ列に一般市民は殆どいなくなっていた・・・・・・業者が雇った並び屋のアルバイトが大半を占めていたのである。
今から思えば留年坊主なのに特に企業研究もOB訪問することもなく、あまり考えもないまま何となく数社回っただけで会社の中身はともかく就職が決まったのもバブルのお蔭だったのだろう。氷河期に就職したヤツが聞いたら怒り狂うだろうな(笑)。
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しばらく前に「倍返しだぁ〜!」のセリフと共に堺雅人主演で大ヒットしたドラマがあったんだけど、あの主人公の半沢直樹は1992年に銀行に入行した、ってコトになってる。ナカナカ原作者は良く調べてると思う。実際、バブル入社組として人材が一番質的に下がったのは厳密にはバブル崩壊後のその年なのである。
おれはそれよりもちょっと前、バブルの真っ最中に社会人になった。単なる無職のプー太郎が「フリーター」などと、まるで何かアイデンティティの確立した者の特別な職業ででもあるかのように持て囃され、ただの民間企業のサラリーマンになるなんてアホの所業のように言われてた時代だった。
社会人にはなったものの大した仕事もしてないし、どだいそんないきなり出来るワケもない。なのに給料は毎年上がってたし、結婚するまでは二日に一度はこじゃれた店に行って飲み食いし、コンスタントに月に一度は安旅とはいえ二泊三日の旅行に出掛けるコトが出来てたのだから、やはりバブルは続いており、おこぼれは落っこちて来ていたのだろう。
もうその頃になると「バブル景気」って言葉は世間一般に流布してたように思う。泡っちゅうだけにそのうち弾けるとも囁かれていたが、「土一升・金一升」の土地神話は何の根拠もないまま固く信じられており、ほとんどの人が青天井に土地の資産価値は上がってくモンだと信じ込んでいた。
北摂の能勢に光風台って新興住宅地があったのだが、さらに奥地に新光風台ってのが造成されることになった。そしたら、今の家を売りとばせばもっと大きな家に住めるだけでなく利ザヤが入って来るとばかりに、こぞって元の光風台の人が土地を求めたとか、大阪どころか県境を越えた和歌山の紀見峠辺りに林間都市なるニュータウンが作られて飛ぶように売れたとか、近畿のチベットと言われてた三田に大規模なニュータウンが造成され、そこから大阪まで特急に乗って通勤する人がいるとか、相変わらず豪気な話が大阪だけでもあちこちに転がっていた。実際、マンションや建売の価格は半年に3〜500万づつくらいのペースで上昇しており、早く買わなきゃヤバいってな不穏な空気さえあった。
大阪の中央環状線や近畿道に沿うように建設されたモノレールはそのうち関西新空港にまで延伸する計画だと言われていた。八尾南が終点の谷町線は実家のある富田林までさらに延伸されるのだ、な〜んてまことしやかな噂もあったかな?だから少々遠いトコに家買っても、今よりずっとベンリに速く通勤できますよ、な〜んて不動産屋の甘い誘い文句もあった気がする。
相変わらずクリスマス時期ともなれば大都市圏のシティホテルはビジネスホテルに毛の生えたようなのまで、ロマンチックだとかアーバンだか知らないが、とにかく一発ヤリたい若い男の予約で一杯になり、BMWを始めとする外車は売れまくりで3シリーズなんて「六本木のカローラ」、ベンツの小さい190Eに至っては「小ベン」などと揶揄される始末であった。
実際おれにしたって初めてのクルマに320i買おうとしたくらいなのだから、誰にでもちょっと手を伸ばせば届く存在だったのだ。買わなかったのは資金の問題ではなく、ディーラーの営業マンがその日借りて乗ってった友人のクルマを一瞥して、あからさまに足許見るような態度に出たのに激怒したからである・・・・・・そらまぁたしかに、何代オチか分からないサビの回りまくった軽自動車では胡乱そのものだったろうが(笑)。
金融系では大卒の入社初年度のボーナスが100万円なんて言われてた。知り合いの妹さんが銀行に就職して、実際それくらい貰ったって聞かされたことがあるから、あながち根も葉もないデマではなかったのだろう。
「ジュリアナ東京」はまだもちょっと後だった気がするが、「芝浦ゴールド」なんてディスコが東京では隆盛を極め、羽目を外したいんだかハメられたいんだか良く分からん、半裸どころか全裸に近いオネーチャンが大挙して押し寄せてたのもこの前後だったと思う。ゲップが出るほどクソド派手でコテコテなアレンジのユーロビートが流行ったのも同じくこの頃だった。関西では依然「マハラジャ」が強かったかな?おれ自身は昔からディスコやクラブがあまり好きになれなくて、オールスタンディングのライヴハウスなんかでタコ踊りしてる方が楽しかったのだけど、好きな連中は寝る暇惜しんで金遣いまくってた。
もちろん、光あるところ影がある・・・・・・サスケ!お前を斬る!ぢゃぁないけれど、良いコトばかりでもなかった。あまりに景気が良すぎてどこの企業も深刻な人不足に陥っていたのである。それまでは国公立や有名私大出身からさらに厳選して一握りのエリートしか採らなかったような都市銀行までが、小学校の算数も覚束ないような聞いたこともない大学出の新入社員を採用してたのだから推して知るべしだろう。そんな銀行員が会社に担当でやって来て、これがもうとんでもない表六玉でまったくなんのお話にもならず、案の定チョンボしでかして大クレームに発展したことが実際にあった。
同期で採用を担当してる者が人集めにひじょうに苦戦してることは良く聞かされた。大卒だろうが短大卒だろうが高卒だろうがとにかくロクなのが集まらない・・・・・・それより応募そのものが減ってしまった。正社員どころかアルバイトまでがいくら広告出そうが時給上げようが集まらない。底の抜けた柄杓で割れた甕に水を汲むような徒労ばかりだ、と気の毒な彼はボヤいてた。オマケに苦労して採用した新入社員の中には「フリーターでもやってた方がマシですから」なんて捨て台詞を平然とホザいて辞めて行くのがおるっちゅうのである。
会社や組織の歯車の一つに収まることは恥辱であり、何だか良く分からないけどクリエイティヴであることが無上の価値で、終身雇用なんて過去の亡霊のような古い概念だと転職雑誌が売れまくり、ヘッドハンターなんてー連中がホントに暗躍してた。おれみたいなどうしようもないのにだって何度も手紙や電話でアプローチ掛けられたくらいだから、ホントにしっかりしたデキる人は大変だったろうと思う。
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あれから20余年、バブルの傷跡の敗戦処理も含め、世の中は随分静かになった。しかし、いささかみんなチマチマと顕実で生活臭く、詰まらなくなったのも一方では間違いなく事実だろう。バブルの空騒ぎはそのうち到来する破綻の予兆を孕みつつも、とにかく明るく陽気だった。人間はアリばかりではやってられない、たまにはキリギリスになりたいのである。
いつだったか、おれより一回りほど年上の知り合いが呑みながらしみじみ語っていた。
------あのさぁ、バブルって良いこっちゃない。あちこちで自然破壊されたり、昔の下町無くなったり、絶対良くはなかったよ。
でもあらぁやっぱし「必要悪」だったんだよ・・・・・・そ!必要悪。何十年かに一度は国に絶対必要なんだよ。
あれでおれたち色んなことも知ったぢゃん。遊びも覚えたぢゃん。何だか儲けたぢゃん。楽しかったぢゃん。
それはそれで大事なのさ。
既にスッカリ酔いの回ってたおれは、失礼にならない程度に曖昧に相槌を打っていたが、そのうち唐突にとある歌詞を想い出したのだった。単に「バブル」って言葉からの安直な水平思考である。どだい曲そのものは落ちぶれたミュージシャンを歌ったもので全然経済とは関係ない。だけど、この部分だけは何となく回顧の気持ちとして近いように思えたのだ。ヘタな邦訳付きで申し訳ないが、およその意味はこんな感じだろう。
But now it seems the bubble’s burst(今ぢゃもうバブルは弾けちゃってんだけど)
Although you know there was a time(でもさ、分かる?そぉゆう時が確かにあったんだよ)
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King Crimson ”Lament” (Starless & Bibleblack) |

実際の開業はバブル崩壊後だったアイタタタな室内スキー場「SSAWS」
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2014.08.15 |
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----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
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