寿司食いねぇ!(Ⅰ)


つい最近まで頑張ってたみたいだけど、このコロナ禍でいよいよ力尽きたみたいだ。

https://sakai-news.jp/より

 外食業界の中でも寿司ほど二極化の進んだトコはないんちゃうやろか!?

 片や江戸前の技と粋を尽くしたとか何とか、悪い冗談のような値段の高級寿司と、片やグルグル回る回転寿司と・・・・・・そんなんで、2つのセグメントの間に玉石混淆で豊穣に広がっていた街角の個人経営の寿司屋は淘汰されるばかりで、随分と減ってしまった。もちろん、全滅したワケぢゃないとは申せ、本当に昔に較べたら少ない。それって何だかとても寒々とした状況だとおれは思う。

 長引くコロナでどうにもダウナーな日々が続いたのもあって、最近ちょっとアタマの中までもが冬枯れなのか、ナカナカ文章が出て来ない。ちょとヤバい。若年性認知症だったらどぉしよう?って不安になるほどだ。
 そんなネタ切れ状態の中、本日は、ネタが無くてはどうにもならん寿司・・・・・・それもお店である寿司屋についての記憶を辿ってみたいと思う。

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 まずは近鉄・北田辺の駅の近くにあった「たろさく」から始めなくちゃならない。

 ウロ覚えで自信ないけど、「たごさく」ではなかったと思う。漢字でどう書いたのかは知らない。兎にも角にもこれがおれの体験した寿司屋の原点で、幼稚園の頃に一度だけ連れてってもらったのだった。それでなくても能書きだらけな父親が得々と語るところによれば、近隣では安くて美味いってコトでかなり有名で、大阪場所の季節になると相撲取りがよくやって来てたらしい。同じ話を高校の時に、この辺から通ってるヤツからたまたま聞いたことがあるんで、実際それなりに名店だったんだろう。
 そんなに豊かではなかったハズの我が家がその夜、どうして寿司食いに行ったのかは今となっては全く知りようもないが、寿司屋特有の背の高い床几に座らされて、殆ど顔だけカウンターの上に出してるような状態で、おれは噂に聞く「寿司屋」ってモンを余すトコ無く記憶に留めようとしてたのだった。酢臭い店内、鉢巻き姿の板前、巨大な湯呑、冷蔵ケースに入った魚の切り身あれこれ・・・・・・どれもこれも実際に目にするのは初めての事物ばかりで、本当にワクワクしたのだけはハッキリ覚えてる。
 ・・・・・・が、食えないのだ。偏食が激しく、生魚は全部アウト、イカ・タコ・海老・蟹・貝類は火が通ってようがなんだろうが全部ダメ、胡瓜も嫌いだからカッパ巻きもダメ。そりゃ食えるモンないわな~・・・・・・唯一好きだった鰻と穴子と玉子だけを寂しく、それこそ「摘まむ」だけで、おれの寿司屋初体験はあえなく終了したのである。
 今稿を書くに当たってネットで調べてみたけど、もうとっくに廃業してるのか、まったく情報が見付からなかった。今なら殆どのネタは食えるのに。

 富田林の団地に引っ越してからは、金剛駅の南東くらいかな?コンクリで固められた川沿いにダラダラ坂を少し上がったところに「錦寿司」ってのがあって、あの界隈ではちょっと高級だって言われてた・・・・・・いや、もちろん親のハナシの受け売りだけどね。なるほど子供心にもその店構えは高級そうに見えた。しかし当然ながら、我が家にそんなトコに出掛けてく余裕なんてない。
 そんなんで当時はまだ「シロ」っちゅうてた、その後のジャスコ~イオンのスーパーマーケットの中の、持ち帰り寿司チェーンの嚆矢である「スシマス」なんかで、巻寿司・いなり・バッテラなんかを母親がたまに買って帰るくらいが関の山だったように思う。ちなみにもう一軒、隣接する公設市場の中には、たしか「つる鮨」ってのもあったんだけど、オカンは「アソコは美味しないわぁ~!」って良く言ってた。ただ、おれにはあんまし違いが良く分からなかったのだが。
 そうそう、関東の人に大阪人のバッテラ愛は分かりにくいだろうが、ある程度年齢上の人はホンマにみなさんバッテラが好きだった。要は〆サバ、っちゅうか「きずし」を薄く削ぎ切りにしたものをシャリの上に並べ、さらにこれまた酢漬けにした薄い昆布を載せてギュウーッと押し固めた箱寿司である。鯖の姿寿司に似てるようでちょと違う。あんなにリッチに身が厚くないし、型枠に入れるからカステラとか羊羹みたいな形をしてるのだ。
 そんなこんなで「錦寿司」には殆ど縁がないままだった。一度か二度、何か特別なお客さんが来た時に奮発して寿司桶で出前取ったことがあった気がする程度で、勝手にお客さんのを食うワケにも行かず、残念ながらあんまし味は覚えていない。それにそもそも鰻と穴子と玉子くらいしか食えないんだし(笑)。
 確かめようにもこの店も近年無くなってしまった。それにどだい今はもう富田林との接点が無くなってしまった。ちなみに「スシマス」も「つる鮨」ももう、その全体の器だったジャスコや公設市場ごとゴッソリ無くなってしまった。70年代はヤングファミリーの憧れの的だった公団の団地も半世紀が経ち、今や寂れて行く一方だ。

 難波駅のちょっと北、御堂筋の東側にあった「丸十寿司」は、もっと長じてから連れられてったと思う。調べてみると、法善寺横丁の支店は今でも健在のようだが、何となく高級路線に変わってしまったようである。
 記憶の中ではそんなメチャクチャ美味いってほどではなかったけど、両親揃ってなんだかとても嬉しそうに、「ここは昔からあってなぁ~、若い頃はよぉ行ったモンやった」なんて話してたから、二人にとっては想い出の場所の一つだったんだろうと思う。味より何より、そんな風に珍しく両親の意見が一致して、いがみ合うこともなく機嫌よく家族で外食ができた・・・・・・そのことがおれの記憶に残った一番の理由なんだろう。
 大阪の大衆寿司の古いスタイルをこの店は残しており、3カン盛りが基本、醤油や煮詰はテーブルの上のツボに入ってて刷毛で塗り、食べ終わった皿は現代の回転寿司同様その場に積み上げてく、ってのが流儀だった。ただ、皿は回転寿司とは異なり角皿だったな。同様の方式は、さらに後年、大学時代に防水工事のアルバイトで守口だか寝屋川に滞在してた時に連れられてった寿司屋はじめ、あちこちで遭遇したことがある。どこも駅前のゴチャッとした、ちょっと場末感を漂わせた呑み屋街にあるような寿司屋だった。今でもあのスタイルは残ってるんだろうか。

 いずれにせよこの辺くらいまでがガキの頃の記憶だ。何せ寿司ネタの大半が食えなかったのだからロクな記憶がない・・・・・・寿司屋を語るな!ってね(笑)。

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 好き嫌いだらけだったおれが180度変わったのは本当にココのオカゲだろう・・・・・・って、最初に常連になったのは、当時はすぐ裏手に下宿してたNだったかな?コイツは筋金入りのエピュキュリアンっちゅうか、とにかく何でも飄々と遊び倒すオトコで、今は郷里の神奈川で相変わらずの享楽的でノホホンとした人生を送ってる。しかしそれが決してイヤミなカンジを与えないのが彼のスゴいトコだわ。コイツに「おい~!ダメぢゃんかよ~!オマエも食えよ~!」とか無理強いされて刺身を恐る恐る口にして、それからおらぁ人生変わったのだ。

 それはさておき、その店とは銀閣寺交差点を少し北に上がった西側にあった「ん」である。北から飛び石に比較的大きな炉端焼、超小さい蕎麦・寿司と独立して3つ店が並んでたのだが、おれたちはほぼ必ずといって良いほど一番南の「寿司『ん』」だった。ちなみに店名はアート引越センターの逆で、電話帳の最後のページに掲載されることを狙って付けられたらしい。
 今はどうだか知らないけど、京都って町はとにかく学生が多かったし、一般の社会人とは呑み方も自ずと異なるトコが多々あって、自然と飲み屋の棲み分けなんかができていた。そんな中でこの「ん」、特に蕎麦と寿司は、ワリと社会人のセグメントにあったと思う。そんな店に何人もの胡乱な風体の若造が三日と空けず通ってたんだから、まぁホンマに生意気でお騒がせではあったと今になって思う。いやマジ、いっちゃん激しい時は冗談ヌキで週3~4くらいのペースで通ってたのではなかったかな?1回行けば少なくとも一人5~7千円くらいは遣うのに。おれも含めてドイツもコイツもとんでもねぇ学生だったわ。

 詰めて座ってもせいぜい10人くらいがマックスのカウンターだけの店で、Mさんっちゅう、何となく非常階段/インキャパシタンツのT・美川に似た板前さんが相手してくれる。歳はおれたちより7つ8つ上だったと思う。たまに代わりにUさんって比叡平の自宅から冬だろうが何だろうがポルシェで通う、「ん」ではかなりエラい人っぽいのが入ることもあったけど、殆どMさんだった。酒はキンシ正宗だったっけ。「酒燗器」ってウォーターサーバみたいなのから徳利に自動でジョジョーって出るヤツ。これはあんまし美味くなかったな(笑)。

 タク飛ばして大体8時前後に店に着くと、取り敢えず何か適当に誂えてもらってウダウダ呑んで、エエ加減出来上がったトコでおもむろに上握り+1~2品を頼むなんてのが大体お決まりのパターンだった。たまに閉店まで粘って、Mさんと一緒にお好み焼き食いに行ったりもしてた。そりゃ~ブクブク肥りもするワケだ。
 あっちからすれば、学生の分際で妙に金回りの良いおれたちはナゾの太客だったんだろう。酔っ払って随分失礼なコトも言ってたように思うが、少しはにかんだような笑顔でいつも上手くあしらってくれてたMさんが懐かしい。

 肝心の寿司。これはたしかに美味かった。値段は前述の通りでそこまでムチャクチャ安くはなかったけど、かといってさほど高くもなく、ネタも良いし、仕事も丁寧だし、サスガ快楽主義者かつ海辺の町に生まれ育って魚の味にはワリとうるさかったNがハマッただけのことはある。
 そんな生活は2年くらい続いただろうか、恐らく人生で最も足繁く通ったであろう「ん」も残念ながら、今はもうない。最後に店に行ったのだって、下宿の同窓会の1回目が開かれた20年も前だ。

 喪われた寿司屋でオマエどこに行きたい?一軒だけ行かせてやる、って寿司の神様に言われたら、おれは間違いなくこの「ん」を挙げるだろう・・・・・・そんな神さん、おらんやろうけど(笑)。

 酒屋の配達で週に何度か瓶ビールと、最近ではスッカリ見掛けなくなったガラスの一合徳利の日本酒を持って行ってた新京極の「いさみ寿司」は、ついぞお客として行ったことはなかったけど、朗らかで威勢の良い大将や 冬になると店頭で井桁蒸籠が積み上げられて濛々と湯気を上げてる名物の「蒸し寿司」なんてのは今でもよく覚えてる。
 また昔、「ウィークリー寿司屋」ってなタイトルで駄文にまとめた、千本今出川にあったアルバイト先の「福助」も、寿司屋に関する記憶っちゅう点では多くを占めてるが、こちらも客としてではないから今回は割愛して良かろう。
 ちなみに前者はその後、御池通り近くに移転してますます盛業のようだ。何だか嬉しくなる。後者は廃業したのか移転したのか、今はもうその場所にはない。

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 握りがどうして2ヶイチなのかっちゅうと、元はオニギリみたいに大きかったのを、パパッと一口で食べやすいよう半分に切って供したのが始まりだと言われてる。

 スッカリ生の魚介類大好き人間へと変身したおれは、長いモラトリアムの後に不承不承ながらも社会人生活ってのをスタートさせることになったのだけど、寿司屋を巡る記憶をこのまま書き連ねてると随分なボリュームになりそうなんで、このひそみに倣って2話に分けてみることにする。

 ・・・・・・なもんで会社員になってから以降のコトは2貫目、もとい「つづく」ってコトで。


在りし日の銀閣寺・「寿司『ん』」。
日付の通り、下宿の同窓会の時に立ち寄ったのが最後だった・・・・・・


2022.02.20

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